スペシャルインタビュー:

木魚職人・加藤寿和さん

(取材・写真:内山洋樹/2019.9.3)

※JPC会報No.162より加筆して転載

愛知県尾張地区は、木魚の国内製造の100%を占めるという特異な地区。一時代は仏具の一大産地として名を馳せた同地区も、時代の流れとともに廃業する製造者が続出し、木魚製造者も現在は6軒にまで減少している。そんな逆風の中でもぶれる事無く、ひたすら木魚を作り続けるのが、加藤木魚製造所の加藤寿和氏。コマキ通商の企画商品「K.M.K木魚」は、加藤氏の守る伝統的な技術から生み出される工芸品です。氏の木魚製造に掛ける思いと、製造の現場のことを伺いに、一宮市にある工房を訪ねました。

木魚製造「加藤木魚製造所」について

コマキ通商(以下K):では、本日はよろしくお願い致します。

加藤:よろしくお願いします。

K:加藤木魚製造所は、創業されたのはいつごろですか?

加藤:はっきりいって、分からないというのが正直なところで(笑)。祖父の代に始まったんですが、祖父が亡くなってしまったもので、はっきり訊いたことが無かったんですよ。推測ですが、だいたい90年くらい前かなと思っています。

K:寿和さんで三代目、お父様の春男さんが二代目。もう寿和さんが三代目を襲名されているんですか?

加藤:正式にはまだなんですが、そろそろやらないとなと思っています。現在は経営者は父のままです。

K:寿和さんがこの木魚製作のお仕事に就かれたのはいつ頃ですか?

加藤:27~28年前のことですね。1992年頃。5年くらいは東京でサラリーマンやってたもので。自分が27歳になる年に始めました。

K:へぇ~。そうなんですね。サラリーマン時代の職種は?

加藤:全く関係の無い…旅行会社の経理をやってたもので、結果的にはその頃の仕事が「青色申告」とかの役には立ってるんですけど(笑)

K:なぜその頃に会社を辞めて、木魚製作の仕事をしようと決めたんですか?

加藤:一応、当時親からは「数年で帰ってこい」と言われてたんです。

K:お父様からは跡継ぎとして期待されていたんですね。

加藤:当時はですね、父は例えば助手みたいな形で実家に戻って親を手伝うのが当然だみたいに思っていたみたいで。昔の人って、そういうのが当然だっていう感覚ありましたよね。

K:そうですね。当時って確かバブル絶頂期の頃ですよね。

加藤:そうですね、ちょっと下り坂、くらいの時期でしたかね。でもどこもかしこも景気が良かったですよね。ウチの家業も景気が良かったです。お寺も景気が良かったみたいで、それで余計に親からは「忙しいから早く帰って手伝え」って言われました。
で、当然東京の会社も景気が良くて。だから実家に帰って家業に入る決心はしてなかったし、むしろ「出ちゃえばこっちのもんだ」くらいの気持ちもあったんで(笑)

K:ははは、なるほど(笑)

加藤:でもですね、たまにこういうこと訊かれるとこう答えるようにしてるんですけど、やっぱり事務仕事ってのは空しさみたいなものがあって。自分のした仕事の「手の跡」が何も残りませんよね。跡形も無く。でもこの仕事って自分のした仕事がちゃんと形になって残るんですよね。ちゃんとしたものを作れば何十年も使ってもらえる。そんなふうに仕事というものを見直す機会になったのは確かにあります。

K:東京の楽しい生活に未練は無かったんですか(笑)?

加藤:そうですねぇ… ま、色々あったんで(笑)あんまり未練は無かったです。

加藤木魚製造所の表札